講演
 
組織として、青年会議所としての情報化への取り組み
 

講師:1995年度(社)日本青年会議所会頭 山本 潤 氏


 
素顔の山本潤青年、青年会議所に入会する

 私がJCに入ったのは、大学を出た年の秋に、同年代の仮会員でたった1回だけ出席しただけの友人に誘われて、例会に付いていったというのがきっかけでした。
その友人もいかにもいいかげんで、自分もたった一度しか例会に出ていないのに、そんな状況で私を誘ってくれた訳です(笑)。ついついそれに乗せられて別に何の思い入れもなく入会してしまったのですが、その頃はもちろん姫路JCや伊丹JCなどというLOMというものがあるということすらも知らず、青年会議所には、いわば「宗教」のような「ぼわ〜ん」としたようなものだというイメージがありました。23歳のいわば学生のような価値観の青年からみれば、自分が入会したJCは、青年会議所ではなく中年会議所でありまして、はっきり言って「だまされた」というのが印象でした。

私は常々「途中でケツを割らない」という信念を持って育てられました。熱心にできれば更に良いのですが、何事にも最後まで務め上げるというのが大切であると思っています。ですから当時青年会議所でも「かなわんなあ。どうしてこんなポマード臭いおじさん達と机を並べて冷めた弁当を食べなくてはならないのかなぁ」という気持ちを持ちながらも、月に一回の例会には必ず出席していました。

 このような形で入会してしばらく過ごしていたわけですが、20代の半ばになってボルネオに海外勤務することになり、2年間ほど休会をしなければならなくなりました。
休会して戻ってきても、以前と同じように事業には積極的に参加するということもなく、いわばスリーピングという状態に一時になったこともありました。
そうこうしている内に、入会当時の委員長が翌年理事長になられるということで、「君でもできるJCがある!」と声を掛けられて出向させられたというのが、今から思うと熱心に青年会議所運動をするようになった最初のきっかけでした。
お隣の川西JCに1985年に国際関係担当の副会頭を務められた玉井さんという方がいらっしゃいまして、周辺の阪七(阪神地域の7LOM)でセクレタリーは出せないにしても側面的に支援するために出向者を出そうということで、私に白羽の矢が立ったわけです。

「君でもできるJCがある」と誘われた中身なのですが、海外出張中のシンガポールに専務理事予定者から電話がかかってきまして、「予定者として東京に一回、京都会議で京都に一回、東京で更に一回とアジコン(現アスパック)で台湾の高雄に一回。これだけやればばっちり。この4回で君も救われる!」と口説かれました。

まあ4・5回出て済むものならちょろいなと二つ返事で受けましたが、後で気づいたのですが、これがJCの常套手段の「騙し」の部分でして、実際にはそれはそれは大変なものでしたね。(笑)



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