出会いは素晴らしきもの、日本JC委員長までの道。

 予定者会議で初めて東京に行った時のことですが、会議の最中にあちこちで携帯電話がうるさいし、あまり良い感じではありませんでした。しかしいろいろと話をしていると、JCI関係委員会という所は委員長以下メンバーが大変若く、それこそ2〜3歳くらいしか年の変わらない人たちが、非常に建設的で前向きな考えを持っていて、それを大変上手に表現されるのを見て、「こういう人たちもいるんだな」と感心したのも、青年会議所運動に傾注していくきっかけになったものと思います。

「一期一会」とか「出会い」という言葉をよくいいますが、出会いの積み重ねというのが人生においてもとても大切なものであると思います。当時の委員長だった91年に会頭をされた川島さんを始め、副委員長の皆さんも後に日本JCの委員長や常任理事をされた方がたくさんいらっしゃいました。また35名程いたメンバーの中でも、その内の8割程はLOMの理事長を経験したという非常にポテンシャルの高い集団であったも思います。
青年会議所で「役」をやったというのは、何等その人の能力を評価するものではありませんが、たまたまJCを一生懸命にやられた方々が集まっていたのは事実であったと思います。
「君でもできる」という口説き文句のように、委員会が年に3・4回で済むはずもなく毎月12回の全てに出席しましたし、世界会議などあるとも知らずに出向していたのに、その年南米コロンビアに全員出席してしまうような委員会でした。

しかしその頃には、まさか自分が会頭になるなんて夢にも思いませんでしたし、当時日本青年会議所の委員長やLOMの理事長をやる人は、企業も能力も家庭においても、自分とは全然違う人がなられるものだと思っていました。唯一「自分を褒めてあげたい」と思うのは、このように日本JCの素晴らしい部分に触れてしまうと、いわば「ボイジャーくん」になってしまって地元のLOMの事など小さく煩わしく感じてしまい、スタンスをLOMより外へとどうしても向けてしまいがちなものですが、私は絶対に(公欠は別として)卒業までどちらもやり抜こうとして、実際にそれを実践してきました。


 あとは人に押し上げてもらったばかりでして、流れのままここまで至ったという感じです。フロアで頑張ったからご褒美に幹事をさせて頂き、幹事が勤め上げられたから副委員長くらいできるだろうとさせて頂いたりしました。そこで私も終わりかなと思っていたらLOMで副理事長ということで、(姫路JCにも紹介させて頂きましたが)マカオの青年会議所と姉妹提携をすることになりました。

すると翌年の89年にJCI関係委員長をする人材がいないということで、日本JCの委員長をお薦めを頂きました。JCI関係委員会の委員長は、その業務内容から特にスタッフ経験者でなければなかなか務められないセクションでして、いろいろとエントリーは出ているのですが該当する方がなく私にお声が掛かってきたようでした。
しかしこの委員会は、川島さんを始め、副委員長時代の委員長が後のJCI会頭になられる王子英さんというような素晴らしい方々ばかりであったので、とても自分には勤め上げる自信などなということで固く辞退をさせてもらっていました。すると随分といろんな方から、時には脅迫まがい(笑)のお願いを頂いたりして、結局お受けすることになるのです。日本青年会議所の委員長というのは、(努力された方には大変失礼と思いますが)取りにいってもなかなか取れないポジションでありますのに、私の場合はたまたまそのような流れで委員長をすることになったのです。

 私の場合入会からしばらく、例会には出てはいてもスリーピングの状態でしたから基礎研修を受けずに日本JCに出て、大変多くの恥をかきました。LOMとNOM(国家青年会議所)の違いも知らずに出向していた訳ですから、いわば「JC文盲」みたいな状態でして(笑)、今から思うと腹の皮がよじれるような失敗をたくさんしてしまいました。
その後は自分で本を取り寄せたり独学で一生懸命に勉強しましたが、若い皆さんはそのようなことのないよう事前にしっかりと勉強して頂きたいですし、LOMでは新入会員の研修に出来る限り努力して頂きたいと切に思います。



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